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ツイブロ

求人広告のライターが、ブラック労働や就活、人材業界周辺のことなど、日常のあれこれをツイーっと書き込んでいるブログです。心に残るヘリクツをお届けします。

ぼくの場合「いじめ」や「殺し」は10歳で卒業した。

考え方 考え方-人材

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<河川敷16歳殺人>万引命令も…抵抗できず 暴力嫌で返信拒んだか (埼玉新聞) - Yahoo!ニュース

 

複数の少年たちがよってたかって、一人をいじめて殺害したという。動かなくなるまで水に顔をおしつけたそうだ。

 

ぼくはニュースを見て世も末だと感じたが、一方で、自分にもかつて同じような残虐性があったことはハッキリと自覚している。

 

「殺してはいけない」は「殺す」ことでしか学べない可能性がある

小さい頃、捕まえた虫をよく殺していた。水をためたバケツに入れて、それこそ溺死させたこともある。

 

羽をもいだセミをアリの巣の近くにおいたこともある。反対にアリの巣に水を流し込んで壊したことだってある。カマキリ同士を殺し合いさせたこともある。

 

いま思えば背筋が凍る悪魔の所業であるが、子どものころは無邪気に殺しを楽しんでいた。殺すことを意識していたのではなく、こうすれば虫はどうなるだろう、を実験していたのだ。

 

だが、ある頃から昆虫を殺すことに嫌悪感をいだくようになった。自分がさわることで死んでしまうのではないか、あるいは寿命が縮んでいるのではないかと感じて、捕まえることもしなくなった。

 

たぶん、殺す、ことに自覚的になっていったのだと思う。

 

カブトムシの飼育で、命はコントロールできないことを学んだ

10歳のとき、カブトムシを飼った。カブトムシは子どもにとって特別な昆虫だ。セミやチョウは殺してばかりだったのに、カブトムシだけは子どもながらに「飼う」ことに違和感を感じなかったのだからすごい。

 

カブトムシ用のゼリーのエサを交換したりしながら、彼らの様子をじっと見守った。しかし夏の終わりころになると、カブトムシの元気がなくなってきた。これまではワシャワシャと手足を動かして活動していたのが、じーっとしていることが増えてきた。

 

エサを多めに入れるなど、子どもながらに元気を取り戻して欲しくて頑張ったがダメだった。ある朝、飼育箱をみるとカブトムシが横たわっていた。手足がひきつったようになっている。死んだセミと同じようだった。

 

殺すのはあんなに簡単だったのに、いざ助けたいと思っても助けることはできない。命はコントロールできないものだと知った。

 

自分には「殺す力」が備わっているという自覚と殺しに対する嫌悪感

とはいえ「カブトムシの飼育があったからこそ、ぼくは命の尊さに気づけた!」と明確に自覚しているわけではない。 カブトムシの一件はおそらくきっかけの一つだろう。昆虫を殺生した経験もそうだ。

 

様々な経験を経て、人は自分が命を奪う力を持っていることを学ぶ。命は失われると戻ってこないことを学ぶ。しかし、それは人づてに聞いたり教えられたりするものではない。

 

たとえば、親戚の葬儀や祖父・祖母の死から命の尊さを学ぶことがあるのも否定はしないが、あれはどちらかと言えば離別の悲しみを知る場だ。命を自らの手で奪う経験とは、やはり根本的に異なる。

 

多くの子どもたちは、虫捕りなのか、ペットを飼うことなのか、家族との死別なのか。経験に個人差はあれど、人生のわりと早いタイミングで、命の尊さと命を奪うことへの恐れのようなものを刷り込まれる。

 

ひょっとすると、大人になるにつれて殴り合いのケンカをしなくなるのも、大人の腕力で相手をぶん殴ることが死に直結することだと、どこかの時点で気がつくからなのかもしれない。 

 

 

子どものころのぼくが、無邪気にセミの羽をもいだように、バケツの水に放り込んだように、少年たちは人殺しをした。ぼくが今回の事件を恐ろしいと感じるのは、事件を起こした少年たちが、正気の状態で人を嬲り殺しているところだ。

 

今回の件で、カラーギャングと言う言葉もはじめて知った。日本の治安はどうなってしまうのだろう。不安だ。子育て中の方にとっては、我が子がいつ巻き込まれるかもわからないので、深刻な問題なのだろうと感じる。ただでさえ少子化なのにね。