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ツイブロ

求人広告のライターが、ブラック労働や就活、人材業界周辺のことなど、日常のあれこれをツイーっと書き込んでいるブログです。心に残るヘリクツをお届けします。

内面世界の豊かさを失ったオタクたちは、ただただ醜い。

考え方 考え方-生活

この方のように何か活動をしていたわけではないけれど、昔にオタクを引退した身としては読まずにいられないエントリーだった。

 

以下、正しいとか正しくないとかじゃなくて、ただぼくから見えている世界についての話。とりとめなく書く。

 

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オタクは滅び、変態が残った

特にこの話が本当だとしたら、ゲームや漫画界隈のオタクの質がかなり変容していることを感じずにはいられない。 

 

 ・濃い作品考察、キャラ解釈は嫌われる。「私はこう思うけど貴方は?」みたいな話はできずひたすら「○○ちゃん天使」とか「やばい襲いてー!!」という叫びばかり。

・↑に乗れないと空気が読めない人、自称変態ほど顔が広く人気があったりする。

 

なんというコミュニケーションの浅さよ。

 

そりゃオタクには確かにコミュ障は多い。ただ、それはアウトプットが致命的に下手過ぎるというだけの話。

 

好きなものをインプットして、とことんのめり込み、その作品を内面世界で育むのは、かつてのオタクの得意技だった。心のなかにもう一つ世界があった。その発露が同人活動でもあったように思う。

 

さらに言えば、ぼく個人としては、作品について浅いトークをすることに引け目すら感じていた。語りえぬものについては、沈黙しなければならない美学があった。

 

とにかく昔と変わってしまって、穏やかな交流とか、ストーリー重視の作品とかが本当に少なくなってしまった。

 

これには色んな言説がある。マンガがドラマ化されたりアダルトゲーム出身の人がライトノベルで活躍したり。創作世界の媒体の垣根が薄れたせいで、ストーリーを重視する層のニーズは、より光の当たる方へ行ってしまったのかもしれない。

 

ぼくもどちらかと言えばその手合いだ。いい話なら媒体はなんでも良かったし、2次元である必要性も感じなかった。ただ、アングラで悲惨な世界観を求めるなら、やっぱりいまでもそっちの世界にいかないと「ない」のだろうとは感じるけれど。

 

とにかく「正統派」になり得るものは、ぜんぶ外に流出しちゃったね、という感覚はある。残ったのは性癖丸出しの変態ばかりである。

 

・原作とは何の関係もないパロ設定、別の漫画の設定をパクってきただけのクロスオーバー、自分を投影した女体化、pixiv大手の解釈がジャンルの解釈となりもてはやされる。とにかくキャラ崩壊していてもエロ要素があれば大騒ぎで持ち上げられる。

・永遠に終わることのないリプ合戦で仲良しアピール。

・誰にでも話を合わせていて、全く本音が分からず人間不信ぎみになる。

・鍵なしでエロトーク当たり前。

 

そしてお互いに、本を通じて、あるいはイベントの場で、Twitter上で、自らの性癖を喜々として叫びあうわけだ。それを仲良しと勘違いしている。

 

自分を客観視できるタイプの人には、さぞかし辛かろうと思う。

 

 

オタクの表面的なコミュ力が高くなったが故の弊害

・相互フォロー同士の挨拶、twitterやめた私は遠巻きにされる。

 

これなんて、中学・高校生がLINEで仲間はずれになったりしているのと、似たような状況だし、

 

・twitterやっていた頃は苦手な作風でも義理買い、義理で感想を言うのが苦痛だった。さらに、自分も義理で褒められているというのが分かってすごく消耗した。

 

何のためにオタクやってんだか、と嘆きたくなるような状況。なるほど引退するのも頷けると思った。

 

オタク同士の交流がなぜそれほどまでに気持ちいいのかと言うと、それぞれが固有の内面世界を持っており、まれに偶然の出会いで、その世界観がクロスオーバーできる相手が見つかるからこそ、なのだ。運命の相手みたいな感覚に近い。

 

だからオタクは、遥か昔、作品に対して自分と似たような感想を持つ人を求めて、インターネットの海を彷徨った。

 

お互いにすり寄ることで生まれる現実的な心地よさも理解できるが、ぼくがオタク活動に求める世界はそうではなかった。真に共感できる相手と語らうのも至福だったが、ときに反対意見を持つ者同士で激論を交わすのもまた刺激的だったと思う。

 

腐女子を中心に女性のオタクが増えたせいで、共感のコミュニケーションをする層の割合が増えてしまったのは、ぼくのような志向を持つオタクにとって不遇だったと感じる。

 

ひょっとすると、オタク社会のほうが女性進出が早かったのかもしれないなぁ。「薄く広く」のつながりを善しとする現代的な作法は、共感を主体とする女性型のコミュニケーションに通ずるところがある。

 

 

同人のコミュニケーションツール化

評価とブックマーク、フォローフォロワーの関係に虚しくなってしまいました。

 

本来、嗜好品の極致であるはずの同人誌すら、コミュニケーションのツールとみなされてしまっているような感覚を覚える。

 

同人は自らの内面世界の発露だからこそ、偶然に志向が合致したときの共感には感激する。いまは共感が目的化してしまい、制作者が読者に寄せに行ってしまっている。

 

「人気作家になりたい!」のとは、まったく異なる「ただ、共感しあいたい」という動機によって読み手に媚びる作家が登場したということだろうか。まぁたぶんそういう人は媚びてる自覚はないだろうけど。

 

内面世界同士の偶然の出会いを楽しむのではなく、街コンや合コン的に積極的に出会う場と化している。イベントは、SNSを前提としたオフ会の場となっている。

 

いいように考えれば、かつては偶然の出会いを求めるだけだったところが、浅い出会いを数多くこなすことで、深い交流につながる「芽」を効率的に探索できるようになったともとれる。

 

ただ、これも街コンや合コンと同じく、本来の目的をみんなが忘れてしまうと、その場をエンジョイすることの方が主目的になってしまい、本末転倒というか、まぁそれはそれで新しい価値なのだけど、参加者間でギャップが生じるよな、と。

 

・どんなに時間をかけて丁寧に作っても、本当にずば抜けて上手い人以外は、結局交流上手な方が売れる…と実感してしまった。

・いつの間にかpixvに毒されてしまい、「受ける漫画」を描くようになったり、自分より下手でも評価されている人を僻んだり、数字ばかり追いかけている自分に気付いたのでやめた。

 

売り手にその気はなくても、「本を買う=承認」というロジックがあるために、同人をコミュニケーションツール的に使ったほうが、結果的に部数が伸びてしまうという現実もあるように思う。

 

この点に関しては、最近ブログ運営についても似たような議論が交わされることが多い。コミュニケーションの一環として「いいね!」だったり「リツイート」だったり「ブックマーク」をすることが、結果的にそのブログのPVや収益を高めてしまうのだ。

 

作品を高く評価するハードルより、相手に共感するハードルのほうが低いにも拘わらず、その1票が同列に扱われてしまうがために起こる悲劇だ。政治の選挙も似たようなものだよね。政策の価値により1票を投じさせることの難しさよ。

 

さて。そんなこんなで、内面世界を見せ合いっこしてまじめに議論しようとする人たちはなかなか表に出てこず、コミュニケーションツールとして活用している層のほうが可視化されやすくなる。

 

だからこそ、当人には、

 

本当にずば抜けて上手い人以外は、結局交流上手な方が売れる

 

と、感じられてしまうのだろう。

 

 

何かを続けることは、承認欲求との戦いでもある

好きだからやる。内的な動機付けでスタートした物事が、何かのきっかけで外部から評価を受け、歪んでしまうことがある。

 

昔のほうが、あらゆることが自己完結しやすかったのかもしれない。インターネットで世間が広く可視化されることで、自分の惨めさや矮小さを認知しやすくなってしまったのだろう。

 

・評価もブックマークも丸見えで、必要とされていないのが他人にも一目で分かる。

 

「20年も続けているのに売れない自分」と「さして上手くもないのに売れる他者」とを比較してしまうことで苦しんでしまう。

 

でも、本来は誰かに認められるために始めたことではなかったはずなんだけどな。自分が楽しいから勝手にやってただけのことが、なぜだか続けるうちに誰かに認めてもらえないと苦しく感じてしまう。

 

ジョギングが趣味だった人が、一度マラソン大会に出場したばっかりに、タイムや順位に固執し、走る喜びを見失ってしまう。そんなことが、ジャンル問わずあちこちで起こっている。

 

本当に何かを続けたければ、他者とのつながりを絶ち、自分の内にひきこもるしか術はないのかもしれない。

 

芸術家の話をするときに「俗世を離れて」「世捨て人」みたいな言葉がでてくるけれど、ひとつのことを追求し続けるためには、外部からの刺激は害になるということなのかもしれない。

 

すごい作品を見ることでインスパイアされることもあるだろうから、正確には害ではないのかもしれない。でも、長く続けるという観点では、承認欲求を過度に刺激されるマイナスのほうが遥かに大きいのだろうな。

 

仕事以外のことにも、過度に競争の原理が働くようになっているような気がする。それは趣味を楽しむために使うプラットフォームが商業ベースのものだから、だろうか。需要があると見るやいなや、くまなく商業的に整備されてしまうからだろうか。

 

pixivもtwitterも商業目的に運営されている。利用を促進するためには、ある程度、利用者を煽る必要がある。

 

そういえば最近のゲームもそんな感じだなぁ。仲間内で一番上手であることの価値が薄れた。昔は隣町のゲームセンターに行ってボコボコにされることでしか味わえなかった敗北感を、いまはネットの通信対戦でいとも簡単に味わうことができる。

 

しかも、その敗北は完膚なきまでの敗北で。世界レベルの巧者と対戦できる幸福と同時に、ゲームで万能感を得る機会を失ってしまっているように感じる。

 

考えればキリがないなこれ。職場もそうだ。いまどきの上司はスティーブジョブズや孫正義、ホリエモンと比較されてクズ扱いされるんだもの。そりゃやってられないよね。

 

何かを続けるためには、承認欲求という魔物をいかに飼いならすかが至上命題。脱力するのか、心を強く持つのか。人により手法は異なるだろうけど、みんな自分なりの流され方を身につけて生きている。

 

 

オタクマインドは、ゲームや漫画のみにあらず

元記事の筆者のようなオールドタイプのオタクが心地よく生きていくための処世術があるとするならば、それはオタク的要素をゲームや漫画などの分かりやすい媒体や世界のみに求めないことだろうと思う。

 

ぼくがオタクをすっかり引退したいま思うのは、仕事上でもそういったオタクマインドと呼べるような価値観をもった人は大勢いるということ。

 

居酒屋で仕事の話で延々語り明かせる仲間は、姿形は違えどオタクマインドに通ずるものがあると実感する。話題はいわゆるオタクの会話とは全然違う。いたって真面目な仕事の話だ。

 

でも、仕事に向き合うスタンスがオタク的であれば、そこにぼくは強い共感を覚える。共鳴できる人と話すのは至福だし、反対意見をもつ人と議論するのもまた刺激的だ。

 

オタクは何をしていようがオタクなのだ。キモいという意味ではない。物事を必要以上に深掘りしたがる傾向がある。あっさり関わるということができない。割り切ることができない。

 

時代がかわってゲームや漫画はオタクの所有物ではなく、公共の共有物になった。みんなの娯楽になった。価値観の異なる層が流れ込んできた。そこにかつてのオタクは馴染めないでいる。

 

そんな現状に違和感を感じる方には、ゲームや漫画など特定の媒体に固執しないことをおすすめしたい。自らの内面世界にいまいちど深く向き合うことで、これからの時代のオタクとしての面白おかしい生き方が見えてくると思う。

 

かつての「オタク」たちは様々な世界に散り散りとなり、筆者のようなオタクマインドを持つ者と出会えることをきっと心待ちにしている。

 

 

追記

2016.08.03

忘れたころにまた拡散していただいており驚きました。多すぎて何の反応もできていませんが、ツイッターの反応はわりと読んでいます。

 

色々感想はあるけれど、まずは女性の方すいません。女性が増えたせいで云々というのは、軽率な発言でした。腐女子を一括りにするな的な意見もその通りだと思います。文章の都合で違う側面についてふれることができませんでした。

 

あと「語りえぬものについては、沈黙しなければならない美学があった。」に対してキモイと反応する方が一定数いたのだけれど言い訳させてください。これはキモいと思いつつも意図的に書いた一文です。

 

むかしに作中でヴィトゲンシュタインの引用をしているパソゲーがあったので、そのときの気分を想い出して書きました。なんか懐かしい気分になったもので。こういうのにカブレていたのって、若さゆえだよなと思います。

 

観測範囲が狭いというご指摘は、まさにその通り。前線から離れて十年近いし、そもそもイベントに参加するようなことはしていませんでした。友人について数度いったきりです。原作のみで満足しているタイプの人間でした。

 

上から目線で書かれているという指摘もありました。これはぼく自身の単なる嫉妬だと思ってください。ぼくは周囲の目が怖くてオタクでいることをオープンにしてこなかった人間なので、いまどきのあっけらかんとオタク趣味をオープンにしている人にあきれ半分、羨ましさ半分という感じです。生まれる時代を間違ったと常々思っています。

 

感想ついでに少し余談です。

 

色んな方の意見を読みながら「根暗はオタクにすらなれない」といったような事を漠然と考えました。オタクですら、って言うとまた怒られそうですが、かつてコミュ力のない暗い子は自然とオタクになっていった時代がありました(またぼくの観測の範囲内の話ですが…)。

 

だから現代のように、100%自由意思でオタクであることを選んでいる人たちを、ぼくは新人類だと感じます。オタクって自分でなりたくてなるというより、気づいたらそうなっているものだったと思うから。その点が今どきの若いオタクの人は全然違う。オタクであることに咎がないのです。

 

内面世界の豊かさを失っていたのは、たぶん僕自身なのでしょう。豊かであるなら、オタクであることを恥じる必要などなかったはずですから。